「あるある」と放送法と麻生大臣とそのまんま知事と……最近マスコミが変なのか、それとも

2007年02月22日 07:35

各官公庁では記者会見の内容を議事録や一部動画で記録し国民に知らしめているが、それらのチェックの中で気になる記録が目についた。【外務省で2月20日に行われた六者会合に関する記者との会見の議事録】だが「これはギャグか?」と思えるような内容だったのだ。その内容から派生する形で、最近マスコミの報道で気になっていることを簡単にまとめてみる。

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麻生大臣の「言わない」

議事録の内容は次の通り。

(問)六者会合ですが、日朝の作業部会についての調整はどのように進んでいるのでしょうか。
(外務大臣)調整は進んでいます。新聞記者に分からないように。
(問)平壌なり東京なりで開催する形になるのでしょうか。
(外務大臣)場所も知っているけれども言わない。
(問)人選については。
(外務大臣)人選についてもほぼ決まっているけど言わない。
(問)時期については。
(外務大臣)時期もほとんど分かっているけど言わない。
(問)開催に向けてはかなり詰まっているということですか。
(外務大臣)動いています。
(問)北朝鮮側が誠意のある対応をしているということですか。
(外務大臣)どの程度のものを誠意というのかよく分からないので定義が難しい。北朝鮮の話はなかなか話の作り方が難しい。だから言わない。



麻生大臣イメージまさに「言わない」のオンパレード。麻生外務大臣が非常に機転の利く、頭の回転の速い人物であることはよく知られている話。これまでにも数多くの逸話が報じられ、あるいは議事録などから発見されている。今回も「問い」をした記者が誰かは記録されていないが、あまりにも「言うべきことではないのは分かっている」内容に嫌気が指した大臣が、大臣として必要最小限の言及にとどめつつ回答した様子が分かる。もちろんこれをもって「報道の自由に反する」「国民の知る権利に反する行為だ」とするのは間違い。

また、質問内容をよく読むと、誘導尋問に近いものも見受けられ、「どう返答しても勝手に解釈されるのなら言わないのが一番で、六者会合に下手な影響を及ぼさないだろう」と麻生大臣が判断をしたようにも見える。

「あるある」と放送法

最近世間を騒がせた「あるある大事典II」の納豆疑惑。納豆が健康に良いのがウソ、というわけではなく番組内の検証がウソだったわけだが、この件をきっかけに多数の解説系番組で「演出」という名前の偽証が明らかになり、「メディアって何よ?」という疑問が世間をにぎわせている。あまりにもウソ偽りの露呈が頻発したせいもあり、【総務省】では放送法そのものを改正し、事実でない内容を放送して国民生活への悪影響や人権侵害のおそれがある場合は、放送事業者に再発防止計画の提出を求めることができるようにする動きが出ている。

TBSでゴルフ番組の中継中に「演出」と後ほど説明したが、特定選手の順位を故意に入れ替えて報じたり(この番組はエンタメ系ではなくてあくまでも一般スポーツ番組)、視聴者が「発言者の本来の意図」とはまったく逆にとらえてしまうような編集をした映像を報じて、何度と無く行政側から指導を受けるなど、メディア側の「暴走」が相次ぐ中で生じた「あるある事件II」(+それに付随して次々明らかになった件)。放送法の改正もむべなるかな、というところ。

これについてNHKでは先日、ジャーナリズムに詳しいとされている青山学院大学法学部大石泰彦教授のインタビューやNHKの放送局長の談話を発表していた。

●青山学院大学法学部大石泰彦教授
「ジャーナリズムは政府・政治権力から独立して業務をしなければならない。政府に管理・監督されて政府や政治を批判・監視するのはおかしい。正しくないものについて批判し是正していくことは、メディア企業、ジャーナリスト、読者、視聴者の関係との中で醸成されていくべきもの。国が報告を求めたりこういうふうに番組をつくりなさいというのはかなり異常」

●NHKの原田豊彦放送総務局長
「放送番組の内容や制作のあり方は憲法が保障する表現の自由、言論の自由との関連で放送事業者が自主的・自立的に対応するのが大原則であり放送事業者側の責任ある対応が求められる。放送の内容が事実でないということをとらえて政府が新たな規制を行うことは、表現の自由の観点から好ましくないと言わざるを得ない」


いいえて妙である……ようにも見えるが、何か引っかかるものがあるのも否定できない。

石原都知事と東国原英夫宮崎県知事と「そのまんま」動画

東国原英夫宮崎県知事イメージ先のTBSの件をはじめ何度と無く「メディア側に意図と反する報道をされた」と憤慨する東京都の石原慎太郎都知事や、先ほど当選した宮崎県の東国原英夫県知事は、記者会見の内容などを基本的にノーカットでインターネット上で公開している(【東京都】【宮崎県】)。住民に開かれた市政を、というのが主な目的だが、意図の一つに「勝手に編集されて意図をよじまげられて報じられたのではたまらない。自らが編集せずにありのままをお伝えすることで、真義を住民に知ってもらおう」というものがあることは間違いない。これは【任天堂のWii発表会を伝えるコンテンツに見る、情報配信とメーカー・読者・報道媒体との関係】でも報じた、「真実をありのまま、加工せずマスターのまま流すことが保険になる」ということを実証したに他ならない。宮崎県ならまさに知事の芸名通り「そのまんま」流したことになるからだ。

「無編集で動画を流す」試みは、国会でも行われている。あまり知られていないことではあるが、議事録以上に物語ることが多い動画は、時としてメディアでは報じられない事実を伝えてくれることもある(【参考:折り紙付の折り紙議員? 外務委員会にて資料で折り紙を折る】)。

「自由」と「自由奔放」は別

麻生大臣の一問一答、「あるある」に始まる放送法改正の動きとそれに対するマスコミの反応、さらに東京都・宮崎県両知事の会見への対応、さらに加えるならば昨今の「受信料」絡みで対立しているNHKと総務省のやりとりなどを見るにつけ、「どうも最近マスコミの動向が変だぞ」という感がある。

先の大石教授の言にあるように、ジャーナリズムは権力から独立して業務をする必要があるし、自由であるべきなのは間違いない。すべての事象を無編集で読む・見るほど視聴者は暇ではないから、編集や加工で情報を伝えるのは必要不可欠だし、それこそがマスコミの使命(端的にいえば「まとめサイト」的な発想だ)。その過程で「そのような主旨の番組・媒体」ならば、編集側の意図が加わっても当然だろう。

だが、よく勘違いされ語られることなのだが、「自由と自由奔放とは別」のもの。「自由」の御旗を振りかざし、意図的に悪意を持って編集を行い視聴者を勘違いさせたり、状況そのものを悪化させるような、あるいは世間をミスリードさせる報道をすることは、果たして許されるのだろうか。

「憲法が保障する表現の自由、言論の自由」という言い回しがNHKの放送総務局長の談では使われていたが、同時に憲法では「公共の福祉に反しない限り」という文言もある。これもまた「自由と自由奔放とは別」を表しているに他ならない。学校の先生と生徒の関係で例えるなら「学校は勉学の場であるからといって、学校内でおしゃべりしたり遊んだりすることまで、学校や先生が規制することは絶対にされてはならない。しかし授業中に友達とはしゃいだりお昼にもなってないのに自分で持ってきたおやつを食べだしたり、『面白くないから』と校庭に飛び出すことが許されるだろうか。許されるはずはない」ということだ。

自由という権利を主張するには、義務を果たす必要がある。義務を果たさず自由のみを主張するのは、単なるわがままに過ぎない。

最近何か変なのか、それとも元からだったのか

今回の一連の流れにしても、当方がこのような情報サイトを管理運営してその方面にアンテナに向けているから、というわけではなく、ここしばらくの間にあちこちで目に留まるような事象ばかり。なぜここ数年の間に、多発するようになったのだろうか。

と、ここで湧き上がる疑問が「ここ数年の間だったのか?」ということ。思い返してみれば、「あるある大事典」はともかく麻生大臣のやり取りや知事の問題などは、インターネットが無ければ恐らく表ざたにならなかっただろう話。昔ならテレビや新聞で一度報じられてそのあと反復、検索されることなく「流れて」しまうという、一過性の情報に過ぎなかった。もちろん新聞の復刻版など検証手段は残されているが、よほど暇な人か意志の強い人で無い限り、探し出すのは難しい。

しかし今は違う。

動画投稿サイトイメージ議事録はネット上にアップロードされ、誰でも検索できるようになった。記者会見の様子などは動画で提供され、編集されないものが自由に閲覧できる。サイト上に掲載されていたが隠す必要があり削除しても、アーカイブ機能などで探し出され検証される。(著作権上の問題もあるが)それこそ一度しか報じられ流されないような端々の対談、やりとりのようすが不特定多数の人によって録画され動画投稿サイトに掲載され、多くの人によってチェックが行われ、事実が明らかにされる。

過去においてなされることのなかった「これって違うんじゃない?」がインターネットやその付随サービスを用いて出来るようになったのが、今現在のマスコミを囲む現状だ。

検証する仕組みが出来た昨今において、色々な問題が浮かび上がり、対応が行われるようになる。では果たして「検証する仕組みが無かった過去において、検証しなければならないような報道はまったく無かったのか」ということになる。恐らくは違うだろう。

むしろ「過去も今も、報道における問題点や、その問題を作る構造は変わるところがない」というのが正解に近いと思われる。過去では検証手段が無かったため、視聴者も単にうなづくだけの話だったが、現在では不特定多数の人が気軽に検証可能な手段を持てるようになった。そして報道される対象側も、場合によってはその検証を手助けするような材料を提供できる。

だからこそ、色々なマスコミ側の「問題点」が露呈されるようになり、今までやりたい放題やってきたことが難しくなった。そしてそれゆえに問題提議をして「変わらなきゃ!」とする動きがある一方、「あがき的行動」も顕著になりつつあるように見えるのだと思われる(あるいは「金属疲労」のようなものなのか?)。

「一億総ジャーナリスト時代」というおチープな言葉で例えるつもりはない。むしろ、自分の心境・信念をしっかり持ち、それを表した上で誠実に物事を伝える姿勢こそが必要なのだろう。もちろん「間違った信念」に基づく行動こそタチの悪いものは無いし、「何が間違って何が正しいのか」ということ自体、相対的な価値観によるもので、絶対的なものはないのだが……。

それでも「やっていいことと良くないこと」くらい、多くの人は分かるはずだ。そして「今までばれなかった所業」が環境の変化でばれるようになって慌てるくらいなら、はじめからそんなことはしなければいい、ただそれだけの話だ。


■関連記事:
【「1.5次情報」という考え方~昔から考え、そして今、目指しているもの】

(最終更新:2013/08/22)

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