【更新】ゲームをプレイする上での基本的ルール「ゲームリテラシー」を求める声

2006年12月28日 08:15

新世代ゲーム機3機種がすべて出揃い、年末商戦を盛り立てている昨今、[産経新聞]において「ゲームリテラシー」なることばが提唱された。ゲームの普及と特に子どもたちの熱中する姿を見て「ゲームが子どもの生活に悪影響を及ぼすのではないか」という保護者に対し、お茶の水女子大学文教育学部人間社会学科・社会心理学専門の坂元章教授が「家庭でのテレビゲームのルール」ということで提示したものだ。

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詳細は元記事を参照していただくとして、概要をまとめると次のようになる。まず「暴力的な要素があるゲームをプレイするとプレイヤーにもそれが反映される」とした上で、ゲームに関する教育をきちんと施し理解させることで「暴力はあくまでもゲームの中のものであり、現実ではしてはいけないこと」と理解させることは可能だとしている。そしてその「教育」は早ければ早いにこしたことはないとのこと。

そしてゲームを単に取り上げて禁止するのではなく、家庭内でのルールを設けることも重要だとし、具体的に次のような例を挙げている。

・子ども部屋にゲーム機を置かない(親に隠れてゲームをするのを避けるため?)
・ゲームをしない日をつくる(休肝日みたいなもの)
・子どもの年齢にふさわしい内容かどうか、レーティング(格付け)を確認する
・子どもと一緒に同じゲームで遊ぶ


多忙な保護者には「うん、それ無理」と言われそうな内容ではある。また、最近発売された『Wii』がコンセプト上三番目や四番目、特に四番目の項目に注力しているのが気になるところではある。レーティングについては先日【CESA、ゲームのレーティング制度の変更を発表。18歳以上向けタイトルを対象年令外へは「販売禁止」へ】でも報じたように、業界団体側でも力を入れている点だけに、力づけられることだろう。

「倒された者の家族はどんな気持ちか、を考えろ・考えさせろ」という意見には「将棋や囲碁などはどうなるのか」「競争社会を否定するような論調では、それこそ『運動会の100メートル走で足の遅い子がかわいそうだからみんな横一例になってゴールすることを強要したり、運動会そのものを中止する』という、まるでゆとり教育の極論のような話であり、莫迦げていてお話にならない」という突っ込みもあるだろうが、それはともかくとして。

ゲームそのものに対するリテラシー(対象の特性や利用方法を理解して取捨選択し、使いこなす力。一言でいえば、「操られるのではなく道具として使いこなす力」)、つまり「ゲームリテラシー」教育が必要だという話にはまったくもって同意できよう。インターネットや携帯電話同様に、ゲームもここ数十年(十数年、か?)の間に急速に広まったメディア・ツールであり、社会全体としてどのように対処すべきかという社会規範やルールは、他の常識と比べると広まっていない。

例えば自動車はその存在を誰でも知っているし、実際に使うには自動車学校に通ってルール(道路交通法など)や運転方法を学び、免許を取得する必要がある。それに対して自転車では免許証を得ることなく誰でも操ることは可能。しかし自転車でも家庭で乗り方を教えたり、学校で交通安全の授業において利用方法における注意事項を教えたりする。

それに対しインターネットや携帯電話、ゲームは自動車や自転車同様に社会一般に普及しているにも関わらず、免許制度もなければ学校内・家庭での教育はまったくない。いきなりそれらをぽんっと与えられてしまえば(たとえ説明書にさまざま注意事項があったとしても……説明書をすみからすみまで読む人が果たして何人いることだろう?)、誰だって社会規範や紳士協定、暗黙の了解を知らずに使ってしまい、その魅力・むしろ「魔力」に取り付かれる可能性が無いとはいえない。

元記事でも指摘しているように、学校や保護者が無関心で教育をしなければ、それこそつなぎとめているヒモから放たれた野犬のように、ゲームの「魔力」に取り付かれた子どもたちはコントロールが定まらない状態になりかねない。それを防ぐためにも、学校、教育機関、そして行政も、インターネットや携帯電話への取り組み同様に、「ゲームリテラシー」について配慮をする時期が来ているといえよう。

ちなみに記事直下には坂元章教授著書のうち注目を集めている4誌をピックアップしてみた。同教授の考え方が分かるかもしれない。

(最終更新:2013/09/14)

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