偶然を偶然としてとらえず必然と考える

2006年01月10日 08:30

たまたま1000円札を拾った、偶然にも乗り遅れるはずだったバスが遅延していて間に合った、到底買えるはずの無い値段で指値買い注文していたのに投売りが出て奇跡的に買えてしまった。日常生活ではよくある「偶然」。だがこの「偶然」も、単なる「偶然」として終わらせるか、「偶然」を「必然」としてとらえるかで、その人の「その後」が大きく変わる可能性がある。

スポンサードリンク

物事における「偶然」とて、必ず何らかの「必然」の重なり合いで生じるものである。乗り遅れるはずのバスが遅延した場合も、そのバスの経路で工事が行われていたため交通渋滞が生じたという「必然」があり、その結果として遅れたに過ぎないのかもしれない。ラッキーで済ませてしまえばそれで物事は終わってしまうが、「必然」としてとらえることで、さらに一歩前に進むことができる。自分の目の前におきた「偶然」が何故もたらされたのか、それを考え、分析し、整理立てることで、「偶然」を反復させることができるかもしれないし、他の方面で役立てることが可能になるかもしれない。

例えば「ある銘柄で到底買えるはずの無い値段で指値買い注文していたのに投売りが出て奇跡的に買えてしまった」とする。「こんな安値で買えた、ラッキー」と偶然に感謝すればそれで終わってしまう。だがそこで「偶然」として幕を閉じるのではなく「売り手がいたから買えたんだ」という「必然」として考えてみる。なぜそれだけ値を急激に下げる売りが一度に出たのか。何らかの材料がもれたのか、それとも大株主の財政的事情で換金する必要があったのか、信用取引における強制売買なのか、誤発注なのか。過去に似たような現象はあったのか、その時の原因は何だったのか、その後の株価動向はどのように推移したのか。これらを詳しく調べることで、その銘柄、あるいは他の銘柄でも「偶然」にくりかえし遭遇し、半ば「必然」とした自分の経験を得ることができる。

人間はサイコロを振ることで運不運、偶然の結論が決まると考えている。だがそれを決める神はサイコロを振りはしないのである。

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

スポンサードリンク



 


 
(C)JGNN||このサイトについて|サイトマップ|お問い合わせ